ある種の均衡として「道徳的にふるまう」という戦略が成り立っているのではないか、というのがここまでの考察でした。
このような共感や感情移入は比較的小さなコミュラアイのなかで発達してきたものと考えられます。
脳容量から分かる認知的な限界を考慮するとそれが一五〇人程度の規模ではないか、ということは前述しました。
現代社会の利害関係はそれをはるかに越えてしまっているわけです。
メディアや通信技術、交通手段の発達は、わたしたちの認知的な世界をずいぶん小さくしてくれました。
今では地球の裏側での出来事や人々のくらしをリアルタイムで知ることができます。
また時間とお金をかけさえすれば実際に行ってみることも難しくありません。
しかし、先の映画のような例をみると、共感や感情移入の限界を思い知らされます。
M氏による無線技術の発明以来、人間はこの一〇〇年程度のあいだにずいぶん視野を広げてきました。
しかしそれでもよそ者はよそ者だし、遠い国で起こっていることは人ごとなのです。
先日のニュースで、イラク戦争の犠牲者を推定すると貿易センタービルへのテロで亡くなった人と変わらないのではないかという話か出ていました。
アフガニスタンでも同じくらいの人が亡くなっています。
アメリカ人、あるいは日本人はこれをどう感じるでしょうか。
人類にとっての地球は、明らかに狭くなっています。
世界的な規模で、自分たちがおなじコミュニティに属しているのだという感覚をもてるようにすることが必要です。
もしかしたら、テクノロジーがそれを可能にしてくれるかもしれません。
科学技術が環境問題の解決になるという考えは根本的に間違っていることがこれまで指摘されてきました。
例えば資源のリサイクルはリサイクルのためのエネルギーを必要としますし、それによって二次的な汚染もあります。
人間が活動すればかならず廃棄物は出ますし、無からエネルギーを創り出すことはできません。
下手になんとかなるという幻想を植え付けてしまうぶん、テクノロジーに頼ることはいっそ危険だという説もあります。
たしかに物質的なテクノロジーについては限界が見えています。
しかし、情報技術にはまだ希望の余地があるのではないかとわかしは考えています。
新たなメディアを開発し、それによってたとえ地球の裏側にいる人たちでも同じコミュニティに属しているという感覚を共有できるようにすることは可能なのではないでしょうか。
あるいは、協力行動には評判というものが重要な役割を果たします。
たとえ匿名の不特定多数が関わる大きな社会でも、情報技術を使えば評判がうまく機能するようなシステムをつくることができるかもしれません。
夢物語かもしれませんが、わずか一〇〇年前にはテレビやインターネットも夢にすぎなかったのです。
心理的な意味においてもっと地球を狭く、世界を小さくしていった先に、新しい倫理観が構築され、わたしたちのいわば「心の限界」というものでした。
ヒトのさまざまな心のはたらきは狩猟採集生活への適応として形成されてきたものです。
しかし、ヒトは適応度を上げるために環境を改変できる能力を備えた存在でもありました。
まずは野生の動植物に手を加えることから始まり、やがて火を使いこなし、石炭や石油のような他の動物には使えないエネルギー源を利用するようになりました。
さらに熱を仕事に変換する蒸気機関が発明され、環境への働きかけは一気に加速しました。
しかし、そのあいだ解剖学的な特徴はほとんど変わることがなかったのです。
心の限界を超えた力をもってしまった霊長類であるわたしたちは、これからどうすればいいのいまさら後戻りはできません。
わたし白身がそうですが、生まれたときからモノが豊富にあり、飢えを知らない生活に慣れてしまっています。
先進国の住民一人一人がすこしずつ謙虚になれば状況はずいぶんよくなるのでしょうが、社会的ジレンマのところでみたように、おそらくそう簡単にはいかないでしょう。
そもそもわたしが考えつく程度のことならとっくに実行されているでしょう。
ただ、少しは考えていることがあります。
問題のひとつは、わたしたちは自分の「身の丈サイズ」でしか物事を捉えられないのだけど、現在の環境問題は「身の丈サイズ」を超えている、ということでした。
では、何らかのかたちで環境問題を「身の丈サイズ」に変換して認識するということをすればいいのではないでしょうか。
その変換装置はある種の概念だったり社会制度だったり、あるいは何らかのメディアだったりするのでしょう。
地球一〇〇人村のような考え方は、そのひとつといえるかもしれません。
もちろん、正確な現状がそこに反映されている必要がありますし、そこから感じたこと、考えたことを現実に反映させるようなしくみも必要になります。
大気や水質の汚染が、犯罪やゴシップと同等の日常性をもって捉えられるようになったとき、環境問題解決の第一歩が始まるのかもしれません。
そのためには、まずわたしたち人間がどのように周囲の世界や自分以外の人間を認識しているのかということを正しく知る必要があるでしょう。
自然淘汰のメカニズムを初めてきちんと理論化しただけでなく、それが人間にもあてはまるのではないかということに最初に気づいたのはダーウィンでした。
それから一〇〇年以上が経ち、わたしたちは自らがどのような生物であり、それはなぜなのかについての知識を蓄積しつつあります。
進化論的な観点からの人間研究はわたしたちの道徳性の起源まで扱えるようになりました。
人間の本性がどのようなものであるのかについて理解し、いかにそれをマネジメントしていくかということが、環境問題をけじめとする多くの現代社会が抱える問題を解決する鍵になるのではとわたしは考えています。
大学院にいたときのわたしの研究テーマは、ニホンザルやワオキツネザルといった霊長類の音声コミュニケーションを調べることでした。
博士論文を書き上げて大学院を出たものの就職先がなく、路頭に迷っていたところを拾ってくれたのが現在の勤務先です。
ところが、そこでわたしに課せられた任務は「環境教育」だったのです。
もちろん生物学の基礎は身につけていますから、生物にとっての環境の大事さはよく分かっています。
それに、学者の端くれとして現代社会が抱える環境問題についての一般的な知識や問題意識くらいはもっていました。
しかし、それまで環境問題を専門に研究していたわけではなく、やっていたことといえば霊長類の認知や行動を調べる、ということでしかありません。
せいぜい野生ニホンザルによる農作物への被害について聞き取り調査をしたという程度のことが、それまでのわたしの環境問題に関連するキャリアだったのです。
まっとうな環境教育とは、環境問題の本質や社会との関わり、あるいはその背後にあるメカニズムを解説することなのでしょう。
しかし、そもそもそこで扱われる「環境」とは他ならぬ人間にとっての環境であるし、問題を引き起こしているのも人間です。
そこで、わたしがこれまで比較行動学や自然人類学を通じて考えてきた「人間とは何か」という問いが重要になってくるのではないかと考えたわけです。
人類学や行動学は浮世離れした役に立たない学問だと思われがちですが、自らについて正しく知ることこそ、未来に向かって有効な指針を立てるうえでの基本になるのではないでしょうか。
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